フットボール マンション

『フットボールマンション』は、各住人に一つのカテゴリー(部屋)を与えており、その中で自由に執筆活動をしております。 初めて当サイトにお越しくださったお客様は、是非、右記カテゴリーより『はじめに』及び『住人の自己紹介』をお読み頂ければ幸いです。記事の更新情報は公式ツイッターアカウントから随時発信されますので、是非フォローをお願い致します。

カテゴリ: バーニング


 自分にとってのアメリカ女子サッカーのイメージは、アビー・ワンバックであり、アレックス・モーガンだった。なのでミーガン・ラピノーのことは、正直あまりよく知らなかった。大学時代に初めてフル代表に招集され、2012年のロンドン五輪金メダル、2015年と2019年のワールドカップ優勝(2019年大会では得点王も獲得)といったサッカー選手としての栄光をつかんだ彼女が半生をつづったのが、本書である。

 彼女の生い立ちからサッカーを始めたころをつづる前半部分。サッカーでの大学進学という一つの夢をかなえ、代表に選出されるまでの中盤部分。そして、「アクティビスト」として生きていくことを決め、実践する後半部分。いずれの時代も魅力的で、そしていつの時代のラピノーが自分の人生で目指しているもの、つまり人生観のようなものは一本の線でつながっている印象を受けた。

 ラピノーの人生観がよく分かる言葉がある。


「もし、なにか不快に思っていることがあって、それについて声をあげにくいと思っているのなら、自分のためではなく、どうか、ほかの人のためを思って声をあげて。 なにかに立ち向かいたいと思ったときも、人のために立ちあがって。大きな理念や目標のために声をあげて立ちあがるには勇気を振りしぼる必要があるかもしれない。でも、ほかの人の気持ちを代弁するのだと思えば、力が湧いてきて、ひるまずにすむよ。自分から声をあげるのはハードルが高いかもしれないけれど、するだけの価値があることだよ。これまで声をあげてきた人、なにかに立ち向かった人、勇気ある行動をとった人が、あとで後悔したことはないはず。声をあげることで、あなたには力がつき、自信をもてるようになり、ほかの人にも大きな影響を与えられるようになる。そのおかげで、ほかの人にとっても、あなた自身にとっても、いい結果が生まれるのだから」(p.186)


 この言葉が登場するのは本書の後半部分、彼女がアスリート個人としての栄光を掴む過程で出たものだ。「ほかの人のためを思って声をあげて」や「人のために立ち上がって」という部分岳を取り出すと彼女が「意識の高いアスリート」にも見えるが、そうした見方が本質でないことは、本書の前半部分に書かれた幼少期の詳細なエピソード(例えば学校で上級生のいじめに遭った時にどのように立ち向かったのか)を読めばよくわかる。彼女の人生観は「一本の線でつながっている」からだ。

 まず彼女が取り組んだのは同性愛者であることを告白することだった。彼女はこれを2012年に計画的に実行している。アメリカ連邦最高裁が婚姻を男女に限る規定を違憲としたのは2013年であるし、バイデン政権が法制化したのは本書の刊行された年に起きた出来事だ。だから2012年当時のジェンダーやセクシュアリティに関する社会状況を踏まえるとカミングアウトにはかなり勇気が必要だっただろう(他方で、当時のアメリカが民主党のオバマ政権だったことはポジティブな要素の一つだった)。しかし、彼女の挑戦はここがまだまだスタートラインなのである。より幅広い、不正義に対しても声を上げていくようになっていく。

 スタジアムで人種差別に抗議するための膝つき行動は、同性愛を告白した時とは異なる大きな反響を呼んだ。また時代はオバマ政権からトランプ政権に移行し、2019年のワールドカップに優勝してもホワイトハウスを訪問しないことをアメリカ女子サッカー代表が公言した際には、トランプは代表を名指しして敵視していた。日本で国を代表するアスリートがこういった言論を張ることは考えにくいし、もちろんアメリカでも容易ではなかっただろう。それでも本書を読むと、ラピノーたちが声をあげた理由が痛いほどよく分かる。

 ラピノーは自分自身がトップアスリートであること、そして白人女性であることを強く自覚している。サッカーをする女性、また同性愛者の女性という意味ではマイノリティだが、白人であるということはマジョリティでもある。そうした自分自身のインターセクショナルな属性を自覚するがゆえに、自分に何ができるのかを一人の人間としてずっと考えてきたことがよく分かる。まず同性愛者としてカミングアウトし、マジョリティである白人のアメリカ人として人種差別に抗議をし、マイノリティに連帯を示した。そして彼女は一人のトップアスリートとして、彼女たち自身(と、おそらくあとに続く若い世代)のために、男子サッカーとの待遇改善を目指す。


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 本書を知ったきっかけは、スポーツ誌『Number』1058・1059合併号に掲載のコラム「新刊ドラフト会議」の中でライターの高島鈴が取り上げていたからだった。







 スポーツと差別の問題は、その根深さが現代的な問題として温存されているものが多い。他方でサッカー界は世界中で多様な人種、多様なセクシュアリティの選手がフィールドを駆けるスポーツだ。このスポーツの土壌の豊かさを失わず、かつ不正義を告発すること。そのいずれもを達成することを目指したラピノーは、高島がコラムで述べているように「まぶしい希望を覚える」ほどである。

 ただ同時に、彼女もまた一人の人間である。本書が書かれた意義は彼女の凄みを知るというより、彼女も私たちと同じ世界で生きてきたし、生きているのだ、と確信することにあるのではないか。彼女がフィクションの存在ではなく、彼女が確かに同時代を生きる人間として実在することにもまた「まぶしい希望」を感じることができるはずだから。

 日本代表がヨーロッパ遠征での二試合を終えた。
 今回の記事は1戦目であるマリ戦のあとに発表されたいくつかの記事を読んでいて感じた素朴な疑問というか反駁をつらつらと書いていくというスタイルのものだが、2戦目であるウクライナ戦を終えても(その結果が結果だったからかもしれないが)メディアの論調はさほど変わっていないように見える。 
 よって今回はマリ戦後、ウクライナ戦前の反応に焦点を当ててみたいが、たとえば次の記事。

ハリルJ、テストしすぎで完成度上がらず。長谷部・長友も警鐘、南ア大会前のような危機的状況に(FOOTBALL CHANNNEL)
中島のデビュー弾もかすむ深刻な課題 テスト重視で試合のテーマ設定が曖昧に(sportsnavi)

 最初の記事を書いた元川悦子は普段からブンデスリーガの日本人選手をコンスタントにウォッチしている記者なので代表キャップを飾るような選手は普段からよく見ている選手も多く含まれる。2つ目の記事を書いた宇都宮徹壱はスポーツナビで代表戦のプレビュー記事からレビュー記事までを毎回担当しており、こちらも定期的に見ているジャーナリストのコメントといったところだろう。
 元川は明確に2010年の記憶を掘り起こしながら「チームのベースを固定しながら集団としての完成度を高める方向に舵を切るべきではないか」と提言しており、確かにそれは間違った方法ではないと思う。ただハリルホジッチが今回の2試合であえてテストと割り切ったことを考えると、妥当な提案とは言えない。つまり、テストと割り切って結果が出ないとしても、ハリルホジッチはそれを見通しているだろうからだ。
 ウクライナ戦の前日会見で現にウクライナにはかなりリスペクトした表現をしているし、1-1に追いついたあとの失点で1-2になったのは、現状ありうる結果として妥当なものだろうと思われる。もちろんこの2失点はいずれもウクライナの攻撃陣のクオリティと日本の守備陣のクオリティの差を見せつけるという意味では、点数以上にインパクトのある失点だったと言えるだろう。
 
 前日会見でのハリルホジッチの言葉を引用してみたい。

 この試合に向けて、選手たちには結果を求めた。前の試合に関しては、すべてに満足しているわけではない。日本だけではないが、W杯が近づいてくると少し緊張感が高まり、そうした中でいろいろな人のいろいろな発言が出てくる。少し発言が多いのはよくないが、それぞれが仕事を実行するだけだ。メディアの皆さんはスキャンダルや話題になりそうなものを探していると思うが、代表はどの国にあっても「聖なるもの」だ。われわれも(チーム内で)何か問題があればしっかり解決する。外部に対する発言というのはよくない。

 W杯直前合宿前の最後の活動だ。私は来日してから、できるだけ多くの選手に表現の場を与えてきた。最終予選だけでも43人の選手を招集している。少し多すぎるかもしれないが、さまざまな理由があって多くの選手を招集した。最も多い理由はけがだ。今日の時点で7〜8人をけがで欠いている。これからわれわれは、しっかり一体感をもって進まなければならない。たくさんのスタッフがいて選手がいるが、団結しなければならない。日本人以外のスタッフもいるが、われわれも日本人の気持ちで挑んでいるし、そのように皆さんに扱っていただきたいと思う。

 この、「いろいろな人のいろいろな発言」というのは様々なメディアがいろいろなことを書いている、という意味でもあるだろうし、選手たちがそれのメディアを通していろいろな発言をしている、ともいえるだろう。長友はマリ戦後にこのままだとヤバイという趣旨の言葉を語っていたし、そのスタンスに同調する記者は先ほどの元川以外にも多くいる。(本当にたくさん見受けられたが時間がかかるので紹介は省略) 
 署名がないので誰の記事かはわからないが、サッカーダイジェストの次の記事も同じようなスタンスだろう。

「2010年の戦い方かそれとも…」槙野智章がチーム内に生まれるジレンマを語る(サッカーダイジェストWeb)
  
 ネット上ではこれらの記事に対する批判を書くとハリルホジッチ擁護なのか、という声も見受けられるが擁護するしないはさほど重要ではなくて、もっと重要なのはワールドカップでこれまで以上の結果を出すことなのではないだろうか。つまりベスト16以上の結果を、2010年のような急しのぎではなく次の2022年やさらに次の代表へと引き継いでいけるような、建設的な結果を求めることなのではないかと思う。 
 ではなぜ筆者がこのようなことを表明するかというと、少し前から本番まで一年もないというのにこれでもかというほどハリルホジッチ解任論を唱え続ける一部の記者の振る舞いにイライラしたということ。そして今回サブタイトルにもしたように、選手のテストではなく結果を求めに行くべきなのではないか、という一部の論調に対して、それは間違ってはいないが個人としては
ハリルホジッチがあえてまだテストにこわだる理由を考えてみたい、ということ。

 この二点が今回このブログ記事を書いた理由だ。

 では、
ハリルホジッチがあえてまだテストにこわだる理由とはいったい何なのだろうか。それはあくまで現時点でのベスト、つまり2018年なりのやり方でワールドカップに挑むということを指揮官が一番あきらめていないからである。 
 2018年のワールドカップに結果を残すことだけを考えるなら元川の言うように、もう少しある程度ベースを固めたうえで、テストするならば少数にとどめるべきだろう。本番のメンバー発表前の対外試合は5月のガーナ戦を残すのみだから、ハリルホジッチの言うようにゲームで「結果を求め」るならば、なおさらベースを固めるべきだ、との指摘そのものを否定するつもりはない。むしろまっとうですらあると思う。
 それでも100%それに乗っかれないのは、先ほどのサッカーダイジェストの記事で槙野が
「未来の日本サッカーを考えれば、引いて守って我慢する戦い方だけでも成長につながらない。そこは一回整理する必要があると思う」と語っていたことも気になるからだ。筆者が個人的にどうこう言うのではなく、選手自身が先を見据えたサッカーをやるべきなのではないか、成長を目指すべきなのではないか、という戸惑いを抱えていることは、それ自体はポジティブに受け取ってもいいと思う。

 あと数か月で本番なのに戸惑っていて大丈夫なのかという話になるが、かといって2010年のときのような目の前の結果は出るが成長にはつながらない、そんな目先の結果至上主義が必要なのか。それが必要ならば、わざわざ4年前にアルジェリアを躍進させた戦術家を招かなくてもよいし、そもそも有罪確定ではなく疑惑の時点でアギーレを解任しなくてもよかった。アギーレもハリルホジッチも、日本サッカーを成長させたり進化させるために呼んだ監督のはずだ。
 原点に立ち返るというシンプルなことにこだわるわけではないが、ハリルホジッチの試行錯誤がたとえガーナ戦まで続いたとしても、それはあくまで23人に絞り込むために必要だったと彼は語るだろう。細かな連携や試合勘は本番までの合宿でこなせばいい、という趣旨はウクライナ戦後の会見ですでに語っているし。これは単なるテスト偏重というよりは、清武や香川、吉田のように戦術的に必要だが故障のために呼べない選手がいる以上、やむをえず必要なテストだった、という見方もできる。 
 先ほどの
「いろいろな人のいろいろな発言」も自分のやり方を気にくわない人が一定数いることを見越した上での発言だろう。
 正直なところ、日本の所属するグループではコロンビアとポーランドが客観的に見れば明らかに格上だ。格上を上回るには、弱者の戦法をとるか、相手の弱みにつけこむか、あるいはこちらの強みを最大限発揮するか、くらいしか方法はない。ハリルホジッチはこのいずれかの方法を組み合わせるだろうが、その結果が決勝トーナメントにつながるとは限らない。むしろコロンビアのポーランドのいずれにも、格の差を見せつけられて敗退するかもしれない。

 
結論を述べよう。「テスト偏重」をやめて目の前の結果を重視するのは間違っていない。間違ってはいないが、目の前の結果とは違う結果を見てみたい。多少リスクをとったとしても、いままでの代表にはなかった結果を求めなければ、あっさり敗退してもいいというくらいのリスクをとらなければ、2010年や2002年の結果を上回ることは容易ではないし、日本代表のサッカーは成長しないのではないか。
 それが、2010年でもなく2014年でもなく2018年の代表の目指すべき一つの方法なのではないだろうか。少なくとも、槙野の戸惑いに耳を傾けるならば。

 バーニングです。のすけさんの投稿を見て、こちらからも住人の一人として何かしらあいさつのようなものをしたほうがいいかなと思い、記事を書きました。
 まずは年末に書いた『通訳日記』レビューのエントリーが多くのPVを集めたようで、書いた甲斐があったな、やったぜという気分でいます。あくまで書きたいことを書く、のスタンスで書いていますが、その結果として多くの人に読まれるのはなんだかんだ嬉しいものだなと。
 暫定ですがフットボールマンション内の人気記事ランキングで2位にまで上がったので、次は1位をのんびりめざしてがんばります。

 さてさてあいさつがてら、今年の方針をちょっと書いておきます。

ゲームレビューを中心としたブンデスリーガの紹介
  
 最初の自己紹介でもブンデスをよく見ていると書きましたが、おそらく今年も継続的に見ていくことになると思うのでブンデス情報を書いていけたらなあと思ってます。
 1部2部合わせて日本人選手が数多く在籍しているので国内のメディアも頻繁に報じていますが、どうしても日本人選手の情報を中心として入ってくるので(バイエルンだけは例外として)日本人選手以外の情報もフォローできるようなエントリーを書くのが一つの目標。
 もっとも、香川真司や長谷部誠をはじめとして1部にこれだけ日本人選手がいると日本人選手に言及しないわけにはいかないので、バランスをとりつつ自分が見たゲームの要点や選手の情報を書くつもりです。

 香川真司が最初のシーズンで鮮烈な印象を放ったように、20代前半の若くて生きの良い選手が多く活躍しているのがブンデスの一番の魅力です。
 他国のリーグと違って外国人選手を多く起用できるせいもあってか、隣国のポーランドをはじめとして周辺諸国からたくさんの選手がやってきます。ドルトムントからバイエルンに引き抜かれるほど成長したポーランド人選手、レワンドフスキのようにドイツで大きく飛躍する選手はこれからもたくさんでてくることでしょう。
 最近ではエジルや香川がそうであるように、ドイツで活躍して他国へ羽ばたく選手も多くいます。香川は結果的に戻ってくることになりましたが、才能の原石があふれるリーグをウォッチする楽しさを伝えたいです。
 まあここ最近はバイエルンが強すぎですが、世界一の観客数を誇るリーグであり、かつほとんどのクラブが財政的に健全にクラブ運営を行っているという好条件がリーグ自体の魅力を強めているのだろうと思います。
 ドイツすげえ(結論)。 

サッカー本のレビュー記事 

 普段は小説ばかり読んでいて、それ以外だと社会科学系の本をフォローすることが中心な読書スタイルですが、フットボールマンションというサッカー関連の記事ならなんでも書いていいよ、という場所にいるのでサッカー本のレビューを積極的にやっていこうかなと思います。
 この前の矢野大輔『通訳日記』はその第一弾でした。第二弾以降に予定している本を、ちょっと紹介してみます(どれもまだ読んでいませんが)。

香川戦記 (イースト新書)
キッカー
イースト・プレス
2013-10-10



  サッカーメディアのキッカーが書いた香川真司に関連する記事をまとめた一冊。いまはドイツに復帰して苦しんでいる香川ですが、彼が最も輝いていた時代をサッカーを見る側としても振り返ってみたいなというところ。

サッカー データ革命 ロングボールは時代遅れか
クリス・アンダーセン
辰巳出版株式会社
2014-12-19

 
 プレミアリーグを中心にサッカーをデータから見る一冊。データ分析による予測はビッグデータとかなんとかで最近流行していますが、サッカーのようなスポーツでどのように戦術的に取り入れられているのかが気になるので楽しみ。Amazonレビューによるとサッカー版『マネーボール』のような本のよう。
 単行本をすでに手に入れたのですが、12月にキンドル化していたようで自分のタイミングの悪さを呪いたくなる。



 これはまだ入手してないですが、筆者(バーニング)の地元に居を構えているらしいサウダージ・ブックスという出版社がまず気になり、この本の解説をサッカーを中心としたスポーツ文化を研究している小笠原博毅さんが解説を書いているという点でさらに気になっている一冊。
 小笠原さんとは以前に一度お会いしたことがあるので気になっているのですが、編著者として『サッカーの詩学と政治学』という本も出しているのでこちらもいずれ読むかもしれません。こちらは完全にアカデミックな視点からサッカー文化について掘り下げた一冊だと思いますが、政治学専攻という筆者の経歴を生かしてやんわり解説できるようなエントリーを書けたらいいような(願望)。 

 
 そんな感じで、この二つの軸でサッカーについて掘り下げていくのがフットボールマンションにおけるバーニングの2015年の抱負です。これ以外にも何か面白そうなサッカーネタを思いつければ書いていきたいですね。
 今年は環境が大きく変わる予定なので文章を書いたり、そもそもサッカーを見るという環境をどれだけ整えられるのかはちょっと未知数ですけど、今年もサッカーを楽しみたいということには変わりないはずなので、改めてですが本年もよろしくお願い申し上げます。


■『通訳日記』はどのように書かれているか

 一部がスポーツ誌『Number』で連載されたあと書籍化された『通訳日記』をようやく読んだ。『Number』では今年のワールドカップ期間中の記述だけだったが、書籍となった本書はサブタイトルの「ザックジャパン1397日の記録」とあるように、矢野がザックと出会う直前からストーリーが始まる。
 本書をもっとも素直に読むなら、あくまで矢野の日記を圧縮した文章だという点に過ぎない。日記はあくまで日記なので、当然矢野が矢野の書きたいように書いている。書籍化を前提としてないだけあって、いまになって分かるオフレコ話がかなり多い。
 たとえば最終的にブラジルに行った23人には選ばれなかったものの、ザックが誰をどのように評価していたのかが具体的な言葉(断片的ではあるものの)で語られるのを読むのはなかなかに面白い。
 家長昭博と柏木陽介は途中まで他の常連組とも遜色ないほどの評価を受けていたことが分かるし、ブラジル行きの最後の一人が大久保ではなく、中村憲剛、細貝萌、そして南野拓実であるかもしれなかった。少なくとも矢野大輔が明かす舞台裏には、そうした事実があった。

 『通訳日記』は2010年の夏からスタートし、2014年のブラジルワールドカップで終わる。 大学ノート19冊にも及んだという日記の中で書籍になった部分がどれだけの量を占めるかは分からないが、書籍の中で一日分に割り当てられているページの量を踏まえるとかなり圧縮されていると言っていいだろう。
 矢野は元々19冊に及ぶ通訳日記を、いつか子どもに見せるために書いたようだ。代表の通訳という仕事柄、家を空けて出ることが多い矢野にとって、子どもたちに自分の経験をつまびらかに伝えるための、父親としての面目を集約した文章でもあったのだろう。それがさらに要約されて書籍化されたので、矢野の子どもにとっては19冊の膨大なノートの前に通る入り口として、ふさわしいかもしれない。 

■このエントリーの目的

 というように、概要と雑感はこんなところにして、単に内容だけをつらつら説明してもつまらないので本題に入ろう。
 本題はタイトルに書いたとおり、 「なぜコートジボワールに負けたのか」ということ。より具体的には、なぜワールドカップの初戦でコートジボワールに勝てなかったのか(1-2で負けてしまったのか)ということだ。
 単にコートジボワール戦の敗戦の要因を探るだけならもちろんゲームを見ればいいし、すでに書かれているゲームのレビューをいくつも読めば妥当なものは見つかるだろう。1-0でリードしたあとに思い切った展開ができなかったとか、1-0で先制したものの終止体が重たかったこととか。あるいは後半に途中出場したドログバをリスペクトしすぎたこと、などがすぐに思いつく。
 『通訳日記』の該当箇所を読んでもいくつかの要因らしきものが書かれている。 香川と長友のサイドが守備面で脆弱だったこと、攻撃はプラン通りにいかずチーム全体の重心が下がったこと、交替のタイミング……

  さて、このエントリーではこのゲームの敗因を、『通訳日記』に書かれてある記述をもとに少し迂回して読み解いていきたい。 つまり、何が遠因となってコートジボワール戦の敗戦につながったのかを探し求めたい。
 一種の仮説的なものであって唯一の答えを提示するわけではない。あの試合で負けた理由は実はこうではなかったのか、という一つの解釈を提示することが『通訳日記』に書かれてある4年間のスパンの記述を利用することでできるのではないか。前置きが長くなったけど、それがこの記事の目的だ。

■なぜ「自分たちのサッカー」ができなかったのか 

 ワールドカップの始まる前から「自分たちのサッカー」 という言葉が選手の口やマスコミの文言に何度も上がった。簡単に言うと、相手どうこうよりもまず自分たちの持ち味を出せるサッカーをしようというところだろう。
 この言葉自体というよりは、なぜこの言葉が何度も登場するようになったかを考えてみたい。一つは2010年の南アフリカワールドカップの戦い方に「自分たち」らしさを感じなかった当時の主力メンバーたちのリベンジという文脈があるだろう。今度こそは、引いて守るのではなく対等に向き合って攻めることで相手を制したいという流れだ。
 あるいは、ブラジル大会での組み合わせが2010年のオランダや2006年のブラジルのような 、10回やって1回も勝てない相手ではなかったからこそ、「自分たちのサッカー」という言葉がメディアを通じてより流布するようになったのかもしれない。

 そしてもう一つ、今回の代表は「自分たちのサッカー」で善戦した結果を経験として持っていたことも挙げられる。2012年のフランス戦、2013年のイタリア戦とオランダ戦、そしてベルギー戦といったように、イタリアをのぞけばいずれも2014年のブラジルで決勝トーナメントに進んだ相手と互角以上の勝負をした経験を、今回の代表は持っていた。
 しかし、2010年とは違った方法でアプローチするというその意思は、たとえうまくいった経験を持っていたとしても2014年のワールドカップの初戦で生きることはなかった。ギリシャ戦、コロンビア戦と比べても、もっとも持ち味を出すことができず、1-2という結果以上に完敗になってしまった。これはなぜなのか。

 『通訳日記』のpp.224~232に一つのヒントがある。2013年のコンフェデ杯でブラジルに完敗し、イタリアに善戦するまでの合間の期間の記述だ。
 ここでザッケローニは代表がメンタル面で不安を露呈する場合が二つのパターン存在すると選手に向けて話している。一つはフレンドリーマッチで集中力を欠くこと、もう一つは完全アウェイで怯んでしまうという状況だ。(p.230)
 コートジボワール戦は完全アウェイとは言えないまでも、1-0でリードしながらドログバやジェルビーニョといったフィジカルの強い選手に対して怯んだことは否定できない。それも短時間ではなく、かなり長い時間を通じて選手は相手に対して怯み、リードしていた前半の時点でチームの重心が下がってしまっていたことが『通訳日記』にも記述されている。

  これだけの条件を書き出すと、1-0というスコアはたまたま獲得したものであり、スポーツなので確実ではないものの逆転負けという可能性を色濃く残したまま前半を終えたことになる。
 また、後半にドログバを投入したコートジボワールと違って、相手を怯ませる交代カードを切ることもできなかった。大迫に代えて投入された大久保も、短期間での合流だったせいかかみ合っていたとは言えないし、よって相手の脅威になることができなかった。

■コンセプトの共有、インテンシティ、幅を出す

 では逆に、どうすればコートジボワールに勝てたのだろうか。これこそあくまで仮定でしかないが、コートジボワール戦での敗戦に欠けていた条件を今度は探してみよう。

 話をもう一度2013年のコンフェデ杯に戻す。ブラジルに0-3で敗れたもののイタリアに3-4で善戦した代表に対して、ザッケローニは「結果に結びついてもよかった」(p.256)と語っている。その上で欠けていたのはディティールでの詰めの甘さである。
 より具体的には、p.236に書かれてあるザックの言葉を借りると、コンセプトの共有、インテンシティ、幅を出すというポイントが挙げられる。注目すべきは、イタリア戦の敗戦をどうすれば回避できたかを述べる際に、「2012年の6月のシリーズ」のようにと挙げていることだ。
 2012年の6月と言えばワールドカップ最終予選の3連戦、オマーン戦(3-0)、ヨルダン戦(6-0)、オーストラリア戦(1-1)を経験したシリーズだった。ただこれはアジアの試合であって、ヨーロッパや南米とは比較することが難しい。と、多くの人は考えるだろう。筆者もどちらかと言えばその立場だ。
 しかしザックの頭の中には、相手がどこであっても先ほどの三つのポイントを抑えて、かつディティールの詰めの甘さをなくせばいいサッカーができると考えている節がある。
 これは面白いことに、先ほど書いた「自分たちのサッカー」という選手達の理念とも近い。 もっとも、ザックの頭にあるやりたいサッカーと、選手たちの「自分たちのサッカー」が相似形かというと、そうではないかもしれないが。

 また、2013年10月の欧州遠征、ベラルーシ戦とセルビア戦のシリーズを終えたあとにも、ザックはインテンシティ、ダイナミズム、ワイドさの三つが欠如していたと選手たちに話している(p.288)。ダイナミズムという要素はワイドさやインテンシティと結びついている要素だから、先ほどど言っていることはさほど変わっていない。
 この欧州遠征では、「自分たちのサッカー」を出すことができず、選手の間にもマスコミの間にもフラストレーションがたまっていた時期だった。それでもザックの頭の中で一貫している。アジアでも、コンフェデでも、そしてヨーロッパでのフレンドリーマッチでも、やろうとしていること自体は大きな違いはない。
 だからこそ大きくやり方を変えずに、11月のオランダ戦とベルギー戦での結果につながった、と解釈することもできるだろう。結果を差異したのは、ザックがやろうとしていたことができたか否かであり、選手の戦術の大きな違いではないのだ、と。

 であるならば、ワールドカップ初戦という予選通過を決めた代表にとって最も重要な一戦に位置づけられるコートジボワール戦で、ザックのプランはなぜ成功しなかったのか。

■再び、コートジボワールになぜ勝てなかったのか

 ではもう一度コートジボワール戦を再考してみよう。相手に対して怯んだのはかつても似たようなゲームがあったがゆえの可能性を提示した。過去に起きたことが本番でも修正できずにおきてしまった、というパターンだ。
 同様に、インテンシティ、ワイドさ、ダイナミズムといったコンセプトをどれだけ共有できていたかという視点からも見てみよう。失点シーンで欠如したのは守備面でのインテンシティだと思われる(2失点とも同じようなパターンからの失点だったので、とりわけ2点目は集中力が欠けていたと言ってもいい)が、ワイドさの欠如がダイナミズムをもたらせられなかったことがゲーム全体を振り返るとより大きな要因として考えられる。
 だから結果的に、ワールドカップ初戦という大事な場面でベラルーシ戦、セルビア戦と同じ失敗をしてしまったのだ。オランダ戦やベルギー戦で見せたプレー内容は、コートジボワール戦のピッチにはなかった。

 ワイドさ、ダイナミズムの欠如の要因は、長谷部と遠藤を併用できなかったこととも無縁ではない。遠藤がいれば幅をもたらすこともできるし、長谷部がいれば攻撃ではダイナミズムが生まれ、守備では全体が引き締まる。なによりみんなのキャプテンがいるかいないかでは、チーム内での集中力にも差が生まれたかもしれない。
 もっとも、0-1で破れたベラルーシ戦でも、2-2で善戦したオランダ戦でも長谷部と遠藤は併用されていないので、この二人の不在がチームの不調の直接的な原因ではないのだろう。
 ただ、チームの根幹であるポジションでもあり貴重なベテランでもあるこの二人は、メンタル面から見ても大きな要素ではあったはずだ。それはこの二人と本田を加えた「HHEミーティング」と呼ばれる密度の濃い議論が何度も何度も交わされていることからも、見てとれる。

■『通訳日記』をより面白く読むために 

 最初に書いたように『通訳日記』はあくまで舞台裏的な日記で、ザックや選手の発言部分は事実ベースだとしても、矢野大輔のエモーショナルなコメントも多々ある。参考資料の一つとして、と記事タイトルにも打ってあるが、この本もつまるところザッケローニ体制を振り返る一つの材料でしかない。しかし、かつてはなかったタイプの材料であり、味わいながら読むのは非常に面白い。 
 そもそもどのように読めばいいのかについては、『Number』が866号で『通訳日記』特集を組んであるのでそちらを読むのもいいだろう。両方買ってね、という文藝春秋の体のいい売り方だとは思うけど、トルシエ、オシムの通訳をつとめたダバディ、千田氏の対談や、ザックファミリーを4年間つとめたコーチ陣のコメントなど、思ったより読み応えがある。ジャーナリストの記事はいいのと悪いのとが半々くらいだったけどね。

  
Number(ナンバー)866号 「通訳日記」で読み解く14の教訓 ザックジャパンの遺産。 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィックナンバー))
Number(ナンバー)866号 「通訳日記」で読み解く14の教訓 ザックジャパンの遺産。 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィックナンバー)) [雑誌]


 今回のエントリーは『通訳日記』からコートジボワール戦の敗戦の要因がどの程度解釈できるのか、という試論めいたものなので、多くが結果論的な記述になった。
 けれども、サッカーのみならずスポーツにも多くの科学的分析が導入される現状では、こういう過去のエビデンスから遡ってゲームの敗因を探しだすような取り組みはもっとあってもいいと思っていたし、かなり雑にはなったが今回の成果は一応上に示した。
 結論自体は、ありふれているというか、そりゃあそうだよなと感じる人も多いと思う。ただ今回この記事を書いてみて面白かったのは、そうしたありふれた結論はすでに過去に何度も繰り返し認識されていることなのだということだ。それも一貫して認識されている。
 問い直すべきは、「なぜその一貫性がもっとも重要な場面で効果をもたらさなかったか」であり、「どのようにすればもっとも重要な場面で一貫性を発揮することができるのか」であるかもしれない。
 たとえば、ゲームの細かな戦術的なレベルの議論が必要だったのではなく、大局的に見たときの(とりわけ、コンフェデ杯~W杯までの最後の一年間の)戦略的なレベルでのチームマネジメントの可能性を、探るべきだったのではないか。(ただし、すでに長くなったので今回はここまでやりません)

 独立変数、従属変数という概念(説明変数、被説明変数と言い換えるときもある)がある。
 今回はコートジボワール戦の敗戦を従属変数として、敗戦につながった独立変数を探す旅を『通訳日記』という資料を片手にしてきたつもりだ。もっとも、より精緻な分析を行うには一冊の本だけでは資料が少なすぎるので、あくまでもお遊び的な、試論めいたものである。
 神は細部に宿る(という言葉も何度かザックは語っていた)し、ミステリー小説ほどでなくとも過去に伏線は必ずある。スポーツはすべてが必然ではないが、過去に多くのヒントがあるのだ。
 これまでの4年間を振り返る本を読む前にこのような心がけをしてみてはどうだろうかという一つの提案をして、この長い記事を締めくくりたい。

ヘルタ・ベルリン 0-2 ハノーファー
(44分:ブリアン、67分:清武)
http://int.soccerway.com/matches/2014/11/07/germany/bundesliga/hertha-bsc-berlin/hannover-96/1713575/

 ヘルタのホームで行われた試合だったが、ちぐはぐなヘルタと勢いのあるハノーファーという好対照さが0-2(オフサイドになった清武の幻のゴールを含めると、あわや0-3だった)という結果に表れている試合だった。
 この試合でも守備でのミスにつけこまれるシーンが何度かあったが、ヘルタはこの試合を含めたリーグ戦ここ5試合のうち、3-0で勝利した9節のハンブルガー戦以外の4試合で2失点している。7節のシュツットガルト戦ではPKを含む3ゴールで3-2となんとか勝利しているものの、次のアウェーでのシャルケ戦では0-2で敗戦しており、攻撃面で安定して点をとれているという状態とも言いがたい。
 簡単に言えば、攻撃でも守備でもムラがあり、そのせいで順位も中位から下位をさまよっているのが現時点でのヘルタというチームだ。
 守備の立て直しも課題だが、カルー、ベーレンス、原口と言った新加入の3人の外国人選手がゴールを効果的に奪えるような攻撃の組み立てができなければ、勝ち点3を継続的にとりにいくのは難しい。このままだと来季は久しぶりに2部降格という可能性もありえるだろう。
 この試合も前半こそカルーや原口がゴールに迫る決定的なシーンがあったものの、後半はハノーファーの勢いにおされ、76分には清武に素晴らしいゴールを与えてしまった。

 対して、ハノーファーは好調を維持している。6節~8節にかけて3連敗を喫してしまったが、上位のバイエルンやボルシアMG相手の負けは仕方ないと言っていい。その後9節のドルトムント戦のアウェーで奪った勝利以降、これでリーグ戦は3連勝となる。
 ホッケンハイムがケルンに敗れ、レヴァークーゼンがマインツと引き分けたことでハノーファーは順位を4位に上げた。ブンデスの中でも中堅どころのクラブとしてはこの躍進を続けたいところだろう。
 好調を維持しているのは連勝中すべてのゴールに絡んでいる清武の好調が大きな要因だが、同時に酒井宏樹も存在感を見せ始めている。昨季の後半から少しずつ出番を増やした酒井宏樹は、今シーズンはスタメンにほぼ定着し、攻撃面では清武の近い位置でプレーすることも増えている。
 はやめにプレッシャーをかけながら中盤を速く突破し、シュートチャンスを何度も作り出す。このようないまのハノーファーのスタイルは、酒井宏樹におそらく合っているのだろう。
 清武もこのチームで好調を維持すれば、アギーレ体制となった日本代表に呼ばれる日も近いはずだ。久しく代表に呼ばれていなかったフランクフルトの乾が代表復帰戦のホンジュラス戦(6-0)で2ゴールという結果を出したことで、同じブンデスリーガで戦う選手として刺激を受けたに違いない。呼ばれてないという意味では、刺激より悔しさかもしれないが。

 代表では清武がトップ下でプレーすることはほとんどなかったと思うが、トップ下として君臨する清武のチームとして機能し始めたハノーファーのサッカーは見ていて面白い。勢いで相手を制する今節のヘルタ戦のような試合もできれば、我慢して奪ったゴールを守りきったドルトムント戦のようなサッカーもできる。リーグが全然違うが、J2の湘南に近いサッカーを志向しているのかもしれない。
 上位陣の3チームであるバイエルン、ボルシアMG、ヴォルフスブルクほどの攻撃の破壊力はまだないが、ヘルタとは対照的に失点の少ないチームにもなりつつあることも好調を維持している理由の一つだろう。この順位を維持できるかどうかは、順位的には暫定で下位になっているホッケンハイムやレヴァークーゼン、あるいはシャルケのような攻撃力のあるチームと対戦したときの真価にかかっている。

 そんなところで、このゲームは両チームの今後の不安と期待を象徴するゲームだった。
 そしてこれはあえて書くことでもないかもだが、日本人選手4人が先発した試合はブンデスリーガでは初めてのことらしい。チームの中心選手になる選手が増えてきたことを、象徴していると言えるだろう。

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