自分にとってのアメリカ女子サッカーのイメージは、アビー・ワンバックであり、アレックス・モーガンだった。なのでミーガン・ラピノーのことは、正直あまりよく知らなかった。大学時代に初めてフル代表に招集され、2012年のロンドン五輪金メダル、2015年と2019年のワールドカップ優勝(2019年大会では得点王も獲得)といったサッカー選手としての栄光をつかんだ彼女が半生をつづったのが、本書である。
彼女の生い立ちからサッカーを始めたころをつづる前半部分。サッカーでの大学進学という一つの夢をかなえ、代表に選出されるまでの中盤部分。そして、「アクティビスト」として生きていくことを決め、実践する後半部分。いずれの時代も魅力的で、そしていつの時代のラピノーが自分の人生で目指しているもの、つまり人生観のようなものは一本の線でつながっている印象を受けた。
ラピノーの人生観がよく分かる言葉がある。
「もし、なにか不快に思っていることがあって、それについて声をあげにくいと思っているのなら、自分のためではなく、どうか、ほかの人のためを思って声をあげて。 なにかに立ち向かいたいと思ったときも、人のために立ちあがって。大きな理念や目標のために声をあげて立ちあがるには勇気を振りしぼる必要があるかもしれない。でも、ほかの人の気持ちを代弁するのだと思えば、力が湧いてきて、ひるまずにすむよ。自分から声をあげるのはハードルが高いかもしれないけれど、するだけの価値があることだよ。これまで声をあげてきた人、なにかに立ち向かった人、勇気ある行動をとった人が、あとで後悔したことはないはず。声をあげることで、あなたには力がつき、自信をもてるようになり、ほかの人にも大きな影響を与えられるようになる。そのおかげで、ほかの人にとっても、あなた自身にとっても、いい結果が生まれるのだから」(p.186)
この言葉が登場するのは本書の後半部分、彼女がアスリート個人としての栄光を掴む過程で出たものだ。「ほかの人のためを思って声をあげて」や「人のために立ち上がって」という部分岳を取り出すと彼女が「意識の高いアスリート」にも見えるが、そうした見方が本質でないことは、本書の前半部分に書かれた幼少期の詳細なエピソード(例えば学校で上級生のいじめに遭った時にどのように立ち向かったのか)を読めばよくわかる。彼女の人生観は「一本の線でつながっている」からだ。
まず彼女が取り組んだのは同性愛者であることを告白することだった。彼女はこれを2012年に計画的に実行している。アメリカ連邦最高裁が婚姻を男女に限る規定を違憲としたのは2013年であるし、バイデン政権が法制化したのは本書の刊行された年に起きた出来事だ。だから2012年当時のジェンダーやセクシュアリティに関する社会状況を踏まえるとカミングアウトにはかなり勇気が必要だっただろう(他方で、当時のアメリカが民主党のオバマ政権だったことはポジティブな要素の一つだった)。しかし、彼女の挑戦はここがまだまだスタートラインなのである。より幅広い、不正義に対しても声を上げていくようになっていく。
スタジアムで人種差別に抗議するための膝つき行動は、同性愛を告白した時とは異なる大きな反響を呼んだ。また時代はオバマ政権からトランプ政権に移行し、2019年のワールドカップに優勝してもホワイトハウスを訪問しないことをアメリカ女子サッカー代表が公言した際には、トランプは代表を名指しして敵視していた。日本で国を代表するアスリートがこういった言論を張ることは考えにくいし、もちろんアメリカでも容易ではなかっただろう。それでも本書を読むと、ラピノーたちが声をあげた理由が痛いほどよく分かる。
ラピノーは自分自身がトップアスリートであること、そして白人女性であることを強く自覚している。サッカーをする女性、また同性愛者の女性という意味ではマイノリティだが、白人であるということはマジョリティでもある。そうした自分自身のインターセクショナルな属性を自覚するがゆえに、自分に何ができるのかを一人の人間としてずっと考えてきたことがよく分かる。まず同性愛者としてカミングアウトし、マジョリティである白人のアメリカ人として人種差別に抗議をし、マイノリティに連帯を示した。そして彼女は一人のトップアスリートとして、彼女たち自身(と、おそらくあとに続く若い世代)のために、男子サッカーとの待遇改善を目指す。
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本書を知ったきっかけは、スポーツ誌『Number』1058・1059合併号に掲載のコラム「新刊ドラフト会議」の中でライターの高島鈴が取り上げていたからだった。
スポーツと差別の問題は、その根深さが現代的な問題として温存されているものが多い。他方でサッカー界は世界中で多様な人種、多様なセクシュアリティの選手がフィールドを駆けるスポーツだ。このスポーツの土壌の豊かさを失わず、かつ不正義を告発すること。そのいずれもを達成することを目指したラピノーは、高島がコラムで述べているように「まぶしい希望を覚える」ほどである。
ただ同時に、彼女もまた一人の人間である。本書が書かれた意義は彼女の凄みを知るというより、彼女も私たちと同じ世界で生きてきたし、生きているのだ、と確信することにあるのではないか。彼女がフィクションの存在ではなく、彼女が確かに同時代を生きる人間として実在することにもまた「まぶしい希望」を感じることができるはずだから。